今年は近谷研OB会の連絡もとくになかったので、仲間内でオフ会を開く(→ 前回の近谷研OB会代替OFF会の様子)。
今回は久しぶりに宮寺先生にお会いできて大変有意義であった。
残念ながら近谷先生は都合が悪くて参加していただけず。
今回の参加者は
の6人。
例によって西武池袋線池袋駅地下1F改札口前に集合(18:00)。 ぶらぶらして、キンカ堂向かいの「鳥どり」に入店。 料理もおいしいしカクテルも奇抜なものがあるしと、楽しめるお店である。 店員の感じもよい。
ただし、隣がバカ合コングループでうるさくでたまらなかった。 久しぶりに一気コールの連発聞いたよ。
独立行政法人化の話とか、秋葉原ダイビルの話とか、組織の話とか。
以前からけっして良い状態ではなかったが、最近かなりひどい状態らしい。 先生と助手の関係の話とか、研究費の話とか。
学部内での再編の話も。
その他、大学間による職員の賃金の違いの話とか。
バグの話とか。
企画しようという話。 各研究室OBにどう連絡をとるか、形態をどうするか等についてなど。
学科設立は1986年。 この年入学し1989年度に卒業したのが第1回期生で、1995年度卒の我々は第7回期生である。 編入(?)により1988年度卒もいて、第0回期生と呼ばれている。 今年度卒業する17回期生を含めて、18期。 研究室に所属したのは200名前後といったところか。
呼びかけてどれぐらい集まれるであろうか。
2軒目として田中丸君ご推薦、金魚鉢パフェのある蔵王へ向かったもののお店は無くなってしまっていた。 2004年1月31日に閉店とのこと。
向かいのサルビアに入店。
やまだ君の自宅アクセス環境の話から、ホスティングサービスの話へ。 田中丸君によるとさくらインターネット利用してみたことがあるけど、いいんじゃないっていう話。
幹事のやまだ君お疲れさまでした。
PRONTO 新橋駅店でアルバイトをしていた高校生の時(1989年から1990年頃)に、一緒に働いていたフィリピン出身のアルバイト仲間と SNS 上で再会。23年ぶりとかになるのかなぁ。彼が「人差し指と親指で L を作るとそれはリバティ(自由)を表すんだよ」って教えてくれたのが印象に残っている。
1986年のフィリピンの革命の時にアキノ氏が指で作ってたあれと同じ。でも今調べたらそちらは「ラバン」(タガログ語で闘争の意)らしい。あ、もしかしたら当時ラバンと教えてもらったのを、途中で記憶違いしていたのかもしれない。
元気でなにより。
SNS 業界で仕事をしているのいいなと思う瞬間。
C MAGAZINE と言えば1989年から2006年まで出版されていたプログラミング雑誌。その C MAGAZINE が電子書籍で復刻というトピックがSBクリエイティブがで出ていた。
高校生の時に読み始めて、付録として収録されていた LSI C-86 試食版で C の世界に足を踏み入れた(それまでは BASIC 中心だった)。初めて Perl というものを知ったのも C MAGAZINE (記事)。
C MAGAZINE はオブジェクト指向などのパラダイムやいろいろなアルゴリズムなどのプログラミングについてのいろいろな事を知るきっかけとなっていた雑誌だった。当時はまだ World Wide Web にも触れておらず、プログラミングついての情報は雑誌・書籍が中心だった。
その後 UNIX Magazine や Software Design なんかで UNIX 系に触れていくことになったり。
コンピュータ雑誌を定期購読しなくなってから久しく、情報は Web から得られる時代にはなったけれど、やはり雑誌を通していろいろなきっかけを得るというのはまだまだ悪くないと思うんだよね。
ソフトウェアエンジニアビギナーのための推薦図書とかの話とか定期的にでるけれど、そういう層は特にコンピュータ雑誌を定期的に読むといいと思うんだよね。そこでいろいろなことに触れて面白そうなことを見つけて出発点とすれば良いと思う。
子供時代(1972年〜1987年頃)を過ごした港区の浜松町・海岸で当時の風景を探してみようと散歩してみた港区浜松町1丁目編。
子供の頃の私にとって浜松町1丁目のメインストリートは世界貿易センタービル前交差点から北へ伸びる道路でした。港区立神明小学校や学校の前の文房具屋さん、駄菓子屋などがある通りでした。
その道路の中ほどにあるのが金井医院。私は普段別のお医者さんのところへ行っていたので、ここに入った記憶はごくわずかしか残っていません。味わいのある建物は健在でした。
「はせべ」だったか「長谷部」だったかは不明。港区立神明小学校の校庭の角の斜め向かいにあった駄菓子屋です。2F ではたしか何かの教室をしていたはず。駄菓子・ガチャガチャ・ミリンダ・ドクターペッパー・ホームランバー・ピノ・銀玉鉄砲。昭和50年代がそこにはありました。
今はもう閉店してその戸は寂しく閉じられていました。
1969年に、現所在地にて創業とのこと。たしかここに同級生がいました。小学校至近が羨ましいロケーションでした。
我が母校である神明小学校は1995年3月に廃校になり港区立御成門小学校に統合されました。今は記念碑のみ。
港区立神明小学校の校庭の門があったところから西へ伸びる道には、左手前の角には以前文房具屋がありました。朝足りない物に気がついて登校の時に寄って買ったりしたものです。練り消しゴムや千代紙などもここで買ったなぁ。
右手前の角にあったお店の店頭にはコスモスの赤い自動販売機があったんですよね。
そのお店の隣には、日用品店があった記憶があります。
そのさらに奥に見える緑のビルはアドビル。
建て替え前も同じように1階が駐車場のビルがありその上の方の階に友人が住んでいました。夏にはビル前にビニールプールを出してくれてそこで水遊びしてました。
向かいは第2長谷川ビル。今はガラス張りの外観ですが以前はタイル張りのビルでした。右手前がいい感じの階段になっているのでこの踊り場からジャンプ弾(ロケット弾)を投げていました。
隣の隣は東武ハイライン大門。隣のビルとの間の細いスペースを秘密基地に見立てて遊んでいました。隣にある駐車場では三角ベースをやったな。
先程の道の一本北側に細い道路がありました。その途中から北に進む路地の左側に生まれ育った家があり、同じ並びに父が働いていた木工所もありました。今は DaiwaA浜松町ビルの裏側にあたる場所だと思います。
写真右手の街灯の柱は昔からある記憶です。
路地の反対側から。
こちらも古くからあるビル。でも1977年竣工なので生まれた時はまだ建ってなかったんですね。
入口右側にあった小屋はとうとう無くなってました。
ここも子供時代から健在です。
2F の「明治パーラーマロンド 世界貿易センター店」健在。世界貿易センタービルができた当初からあるお土産コーナーのような売店もまだありました。改造社書店という名前なんですね。ここ。
[ 撮り歩き ]
高架下の鍵屋さん。
— Naney (@Naney) January 16, 2022
ツルミキーセンター。1989年4月からこの場所で営業。#photography
RICOH GR III #GR #GRIII #GR3 pic.twitter.com/LBxQgNGRxz
Naney (なにい) です。株式会社MIXIで SNS 事業の部長をしています。
※本サイトの内容は個人的見解であり所属組織とは関係ありません。